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2008年 09月 27日

房州節

b0080173_19192219.jpg昨日、久々に近所のスーパーで高校の時の体育教師と会って、
飲もうということになりいつもの屋台に行った。
奥さんがアメリカに行っている間ひとりで、
何がどこにあるのかも全く分からず困るとぼやきながら
石鹸をかごに入れているのを見て、笑った。
この先生は名物教師のひとりで、体育の時間は
生徒を運動場にほっぽりだして自分は涼しい日陰で煙草を吸い、
他の先生に隠れてウィスキーを飲み、くつろぎながら
鬼瓦の形相でスピーカーから生徒にゲキを飛ばしたりしていた。
私はそんな体育科が居心地よく、卒業後もよく遊びにいった。
卒業してからはもっと関係も近くなり、体育科の教師陣と雀荘に行ったりもした。
中でも麻雀マンガ『哲也』の房州そっくりのこの先生とは特に仲が良くて、
十三、大正いろんなところで飲ませてもらった。
たまたま家が近所になってからはバッタリ会えば飲みにいくということが続いている。
そんな房州ももう55歳になり、皺も増え、飲み過ぎのむちゃくちゃな生活と痛風が
実年齢よりも身体を衰えさせ、かつての威厳をすこし遠くにおしやったかのようにも見えた。
生徒も教育ももう以前とは変わり、房州のような教師もモンスターペアレンツだとかの
影響を受け、少しはまともにしている様子は、聞いていて笑えるけれどさみしくなった。
今の時代だからこそ、そんなろくでなしの教師が必要なんだと言った。
私は房州からつまらないものをたくさんもらった。
昨日も飲みながら私の絵のことをぶつぶつ言いはじめた。
絵はわからん、おまえの絵はけったいなもんばっかりやのう、
おまえはものを裏側から見ようとする、要するにおまえはひねくれとんねや、と散々だ。
帰り道で酔いのまわった房州がいきなり「俺が死んだら」と言いはじめた。
俺が死んだら、おまえ俺の遺影描いてくれよと言った。
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by ai-pittura | 2008-09-27 20:23 | 人間 | Trackback | Comments(10)
2008年 09月 27日

小さい絵

b0080173_16395229.jpgアートコンペも、応募する時にコンセプトの
文章提示を求めるものが多くなったと思う。
あるコンペの応募作品がコンセプトと共に
ネットに公開されているものを見たが
皆書いていることが一様にコンペテーマに
依っていて怖さすら感じた。
経歴やコンセプトを書かせず作品だけで
審査し、ジャンル関係なく
立体平面ごちゃまぜのコンペなどが
もっとできたらいいなと思う。
今は出したいコンペが本当に少ない。

いろいろ考えてめずらしくちょっと
下降気味だったので、気分を変えようと
小さい絵をつくったりしていた。
手のひらより小さい絵なんかになると、生死がとか人間がとかそういうことも遠くなる。
イタリアでいいなと思ったものや自分の好きなものを何も考えずに描く。
ただ純粋に楽しい。時々そこに、わからないように小さい犬や猫をまぎれこませたりもする。
今日はナポリのぼろアパートを描いてちょっとイタズラもした。
私だけにしかわからないかもしれない。自分だけの楽しみでいい。
真剣に対峙する作品だけがすべてと思っていない。
こういうちっちゃい楽しみがあることでメインも何か変わればいいなと思っている。
どちらも大事だ。
ナポリを思い出した。ナポリは相反するものの同居が著しく激しい町だ。
女性には野性的な荒々しい美しさがあって、男性は10歳にしていい男のオーラがあって困る。
そんな同居が人間にえも言われぬ魅力的な膨らみをつくっているのかもしれない。
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by ai-pittura | 2008-09-27 17:41 | | Trackback | Comments(6)
2008年 09月 24日

制作メモ

気持ちいい秋晴れだ。
今年は涼しくなるのが早かったから、真夏は無理だったベランダ制作を再開できている。
昨日は、このところ描いてきたじいじいの連作を並べて眺めてみた。
亡くなった直後に描いたものから時間的経過の順に並べると、やはり変化や揺れがある。
今回それでいいと思っている。
はじめて不在の人を描く中では完成度よりも試行ということを優先させたからだ。
これまでの自分以外のところに触れたかった。
それより難しかったことは感情のことだ。
感情の振れは日々に大きなエネルギーをくれる。
それは大事なことだと思っている。でもその中に埋没するのは避けたいと思っている。
ものの本質に迫っていきたいと願ってきた。
そのためには感情より理性、信念、また意識より無意識の方が必要なのだ。
たとえて言うと、画面の近くで筆を動かしていても絵は見えない。
一歩ひいて後ろに下がった時はじめて全体像が見えてくるというようなことだ。
もしくは意識下に入ってゆけた時になにかがあるんじゃないかと思う。
そういう点で今回の制作の難しさがあった。
感情や意識を越えたところにはじめてじいじいとの関係が、生死があると知りつつも
強い感情との闘いも長かったと思う。
それが作品にどう影響しているか、まだ客観的には見られないし
もう作品として独立すれば制作者側のこんなことも不要で
見る人のそれぞれの受けとり方が何通りもあるのがいいと思っている。
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by ai-pittura | 2008-09-24 12:10 | | Trackback | Comments(4)
2008年 09月 24日

刀と岩絵具

司馬遼太郎『峠』で気に入った箇所がある。
河井継之助は「刀は武士の魂ではない」と言い切った。
彼の議論はこうだ。
「戦国武士の場合、刀は単に道具であり、切れればよかった。
それが江戸時代に入って、神聖なものになった。
またいではいけないとか、どうとか言うようになったのは世が泰平だからである。
道具が、神器のようになった。
同時に武士の身分をあらわす階級の紋章のようになった。江戸期では武士の独占物になり、
武士は両刀あるがために誇りや名誉を感ずるようになった。」
私はこれを「岩絵具は日本画の精神ではない」と読みかえる。
日本画の世界は岩絵具を神格化して扱うことが多い。
私はかつて岩絵具の使い方、発色のさせ方などにおいて大目玉をくらってきた。
天然岩絵具はそれだけで本当に美しい。それは確かにそうだ。
しかし、岩絵具を神聖化し、岩絵具を使うことが精神的というのは違うと思う。
自分に必要な素材を選ぶことは大事だ。
しかし素材は道具でありあくまで方法で、大切なのはそれを使う人間がどうありたいかだ。
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by ai-pittura | 2008-09-24 00:11 | | Trackback | Comments(6)
2008年 09月 23日

現実

b0080173_238552.jpg昨日、アトリエを訪ねてきてくださった方があった。
ストレートな方で、作家サイドから見えないことなんかも話して下さった。
その後、「これからどういう風(作家)になりたいですか?」と聞かれた。
私は
どう生きたいかということがまずあって、その次に絵がありますと答えた。
つまり画家として成功する、有名になることは私には一番でない。
それでも私は絵が好きだ。自分の思う絵を描いて発表し続けたい。
ごまめはそのためにどうすればいいのだろうと
今日はそんなことばかりが頭をぐるぐる回っていた。
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by ai-pittura | 2008-09-23 23:29 | | Trackback | Comments(3)
2008年 09月 22日

時期

b0080173_1044315.jpg草木にいろんな段階があるように人にもいろんな時期がある。
種の時、殻を破って土から芽を出す時、太陽に向かって一心不乱に伸びる時期、
梅雨にうたれる時、葉を落とし実りを待つ時期...
じいじいの死とやりとりをする中で、司馬の描いた晋作の生き方が落雷のように響いた。
そうして私は違う時期に入りはじめたことを感じている。
いまは猛烈に燃料を欲している。
それは個展後のために必要なものだ。
本、映画、しっかりとした骨のあるものを次々に入れたい。
今までは丁寧にかみしめる必要があった。
今はちょっと違って未消化な部分が残っても、どんどん入れる時期だ。
だからアドレナリンが出続けているような状態で、日記もそんな感じだろうと思う。
晋作の生き方はいつでもとりだせるところに置いてある。
今回の個展でじいじい、老人という長かったテーマを終わりにしようと思う。
そして、もう一度ゼロから何かはじめたいと思っている。
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by ai-pittura | 2008-09-22 11:23 | | Trackback | Comments(4)
2008年 09月 21日

猛雨

我が家には、このところ傘がない。
旦那はどんなに雨が降ろうが傘をささない。
炎天の下も雨や雪の下もタオルだけきゅっと巻いてでかける。
私も少々ではささないが、ずぶ濡れで仕事に行く訳にいかないので、私用のビニール傘が一本あった。
でも、どこかで忘れて気づかなかったのか、普段は表に放り出していたので盗られたのか
いつのまにかなくなっていた。
今日、京都は猛烈な豪雨だった。仕事からの帰り、バスを降りたらどしゃぶりだった。
天から大粒の雨が踊りながら一直線に町をたたきつけていた。
雨は頭をなぐり、肩をたたき、顔を滑りおち、目に口に流れ込んでくる。
こうなったら雨をよけようなんて気は微塵も起こらない。
もっと降れと空を仰いで雨にうたれる。
ばらばらと軒を打つ激しい音と砲弾のような雨の中に立っていたら
もうここがどこなのかもわからなくなっていく。何もかもが洗い流されていく。
気持ちがいい。
満足して家に帰り、熱いシャワーを浴びたら何とも言えない感動が押し寄せてきた。
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by ai-pittura | 2008-09-21 22:38 | 風景 | Trackback | Comments(8)
2008年 09月 21日

絵と日々の間

起きたらシーツに草が一本ついていた。
お風呂には入っていないのになぜか風呂場の前に脱いだ服があった。
肘に擦り傷、お尻に打ち身。一体何があったんだか。(笑)
それでも家に帰ってきたら、コンタクトを几帳面にはずして寝ているところだけは
どんなに酔っていてもそうで笑える。
ゆいと2週間ぐらい会ってないだけで話すことがいっぱいあって、
大人になってからはゆっくり飲んでしっかり話すお酒を身につけた私たちも
昨日は久しぶりに盛りあがってほんとに楽しかった。
記憶は少々飛んでいても、立て続けにしゃべって笑って飲んだ勢いの余韻が満ちている。
ずっとこうしてきたんだなと思った。
心動かされる日々を、情動を、未消化の熱を、まずは何も考えずにゆいや旦那の前に曝す。
そして話して話して、話す中で私はそれらをはじめて内に取り込んでいく。
比較することで自分を知っていく。
そして絵に向かう。
ゆいも旦那もほんとに聞き上手な人だと思う。
聞き上手とは、うんうんと合わせて聞いてくれることじゃない。
彼らは手強い。いろんな方向に打ち返してくれるからおもしろい。
旦那は一見ぼーっとしているように見えるし、議論はしたがらない人で、ほんと口下手だが
実はかなり多角的な視点を持っている柔軟な人だ。
ゆいと旦那は偶然ふたりとも陶芸で、
方向は違うが共通項もあり、それぞれの温度は作品にも滲んでいる。
絵と日々の間にいてくれる彼らの存在は大事で、感謝している。
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by ai-pittura | 2008-09-21 21:32 | 人間 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 18日

カブトにて

b0080173_23334589.jpgb0080173_2334475.jpg
b0080173_2336140.jpg久しぶりの友人と会って、その後はKさんが飲みにつきあってくれた。
思い出横丁のカブトへ。通称しょんべん横丁っていうらしい。
これまたほんと行きたかったところでした。
こんな私も、10代後半の頃はミニにヒールでお洒落なカフェとかも
よく行った。でも結局どこも同じようでつまらなくなった。
そういう所はきれいだしサービスはいいけど均一で人間が見えない。
結局、私は大阪下町生まれでガード下や新世界の空気が肌に馴染む。
人間のしみや垢に心を打たれる。
醜も美も愛も憎も一緒くたになった汚い中にリアルなものが光ってる。
ここ、うなぎ屋カブトもそんな匂いがするとこだった。
油の煤が垂れ下がって真っ黒になったランプを眺め
ずっとあそこで照らしてきたいろんな人生を想像する。
瓶ビールにエリ(うなぎの頭)、ひれ、肝、蒲焼き、一通り食べる。鰻は頭からしっぽの先までおいしい。
その前にも食べてたからかなり満腹だったけど、とにかくこんなおいしいもの久しぶりに食べた。
今度また新宿で飲む時は絶対ここがいい。
昨日はすぐに酔っぱらってKさんにからんでしまった。(笑)
同世代のもの書きKさんとは、これからもいろいろ話したいことがある。
ほんとに誠実、勉強熱心な人で常に静かな視線を持ちつつも内に熱いものを秘めているKさんを
尊敬しているし、美術と共にいてくれることが心強い。
これからもどんどん成長していく彼の文章を読むのを楽しみにしているし、
こちらもしっかり頑張りたいと思う。大事な話ができる数少ない同世代の友人だ。
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by ai-pittura | 2008-09-18 00:57 | 人間 | Trackback | Comments(6)
2008年 09月 17日

ゴールデン街

b0080173_2323533.jpg

友人と晩御飯を食べるまで少しだけ時間があったので、
ずっと行きたかったゴールデン街を歩いてみた。想像してたより規模は小さい。
でも路地にひしめきあう小さい酒場も、垂れ下がってる電線も汚い壁の落書きも蠢いていて
奥深くまで潜っていけそうな夜があった。いつかここで飲んでみたい。

新宿ゴールデン街
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by ai-pittura | 2008-09-17 23:13 | | Trackback | Comments(2)