ふりつもる線

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カテゴリ:人間( 47 )


2014年 11月 24日

写真

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ここに9枚の写真がある。
2010年 新生堂での個展(私)
2010年 neutron kyotoでの個展(ジュン)
2012年 neutron tokyoでの個展(ジュン)
2013年 ギャラリーゴトウでの個展(ジュン)
2013年 白白庵での私たちの二人展(Rさんと私、ジュンと私)

展覧会に来てくださる度にTさんが胸に下げている小さなカメラで撮ってくださった写真だ。
写真を見る度に、すべりこむように
その時その時の個展の会場へと入ってゆくことができる。
どれも大好きな写真。
もぞもぞしているジュン。
すこし緊張しているわたし。
Tさんはいつも、撮られると思うよりはやくシャッターを切っていて
そのままの空気がどの写真にも切りとられていた。
早撃ちのガンマンのようなカメラマンだと思っていた。
それでいて、撮る時に威圧感や殺気はなくて、とてもやわらかい。


そんなTさんが写真を撮ってくださることとなった。
今まで、提出をせまられる度に、まともなものが無くて困っていたプロフィール写真だ。

撮ってくださる前に、どんなプロフィール写真がいいか考えておいてね、とメールをいただき
すこし想像してみたけれど、明確な像は思い浮かばなくて、言葉にできたのは
絵より前に出る感じにはしたくないということ、
ごくごく自然なさりげないものでありたいということ。

でも実際、その場に立ち、何枚も撮影していただくなかでは自分の意識が先に立ち、
さりげなくあろうとすれば、それだけ不自然になっていたと思う。
"プロフィール写真"ということにもとらわれていたのだなあと今になってそう感じる。
何枚も何枚も自分を撮られるということは初めての不思議な体験だった。
何かをしている訳でなく、撮られるためにそこにいるということも不思議な感覚だった。
カメラを見る、ということに慣れていないのだろうか。
後で考えてみれば、家のアルバムにある私の写真にはカメラ目線の写真が少ないことに気付く。
表情のかたい私にTさんは刷毛を持たせてくださり、
いろんな視線誘導の魔法をかけてくださった。
Tさんのたくさんの細やかな心遣いが、ほんとうにありがたかった。

撮っていただいた写真のはじめの方と終わりを比べてみると、自分の顔がずいぶんやわらかくなっていた。
Tさんというカメラマンのなかには、解剖学者のような鋭さと春の陽射しのようなあたたかさが同居しているように感じた。
私は、ただの自分にはまだまだなることができなかったけれど、
Tさんが撮ってくださったことは かけがえのないことだった。

本当にありがとうございました。






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by ai-pittura | 2014-11-24 01:02 | 人間 | Trackback | Comments(0)
2014年 10月 17日

宴の幸福

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東京/TさんとRさんのお宅にて

素敵だったことをかぞえれば、幾つ両の手を折っても足りない。
ベランダからの夜の運河がすばらしかった。
時折さあっと入ってくる風、窓辺に揺れる雲竜柳。
生ききろうとしているバジルたち。
外と内の境が曖昧で
半分屋外にあるようなお部屋は本当に居心地よかった。




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by ai-pittura | 2014-10-17 00:36 | 人間 | Trackback | Comments(0)
2014年 06月 07日

生活

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画家のIさんが滋賀まで遊びに来て下さる。
うちでお昼ごはんを食べていただき、近くの神社を散歩し、棚田とさくら山、そして琵琶湖の浜辺で珈琲を。
ゆるやかで、しずかなひと時。
会話らしい会話がなくとも、となりにある空気はたしかに朴訥で正直なIさんの佇まいで
そのことが 私たちにはただただうれしい。
ジュンとIさんは、なんだか不器用な人同士、とても似た波長で通じ合っている様子。
うしろから見ているとハナグマとアナグマが少し離れてふんふん匂いを嗅ぎ合っているようだった。

先月の末、Iさんの住む町を訪ねた。
どこも下町の生活感がにじんていて、私は一目でその町が好きになった。
Iさんの産まれたあたりを散歩し、ふるくから変わらない喫茶店で珈琲を飲み、
近所の商店街を案内してくださり、さいごにお宅に呼んでくださった。
彫刻刀で丁寧に彫られたちいさな表札、
玄関を開けたらすぐに二階へ伸びる急な階段をあがると畳の部屋がふたつ。
ひとつの部屋は6畳くらいだろうか、真ん中に机がありその上には丁寧に揃えられた紙の作品が
何枚も積み上げられている。
家具はとても少なく、すこしだけある箪笥や戸棚の中もほとんど描きかけの作品と本。
もうひとつのお部屋は寝食のために。
毎日食べるものも、お惣菜を近くの商店街で求められるIさんの生活は極めてシンプルだ。
調理器具はやかんとちいさなコンロだけ。
電子レンジも炊飯器も給湯機もない。
洗濯機もなく、着るものは全て手で洗い、お風呂は近くの銭湯へ。
テレビはほとんど見ず、ニュースはラジオから。
とても削ぎ落とされた生活。
それでいて、Iさんにはとりたててそのような意識はないようにもみえる。
欲を捨てているわけでもなく、昔からずうっとそうしてきたように、
とても自然に淡々と、ごくふつうに生活しておられる。

Iさんの部屋に、掌にすっぽりおさまる丸い石があった。
無数のちいさな穴があいている、滑らかな黒い石。
まるで誰かがすこしずつ大事に撫でているうちに長い年月をかけてそうなったような、
ふしぎなやさしい集積がそこにはあった。
それはたまたまゴミ捨て場に落ちていて、とてもきれいなのでIさんが持ち帰ったものなのだけれど、
黒い石の印象はIさんの生活にそっくり重なった。

生きてゆくこと、生活してゆくこと、
必要なわずかのことを、心をこめて大事にする。
私たちの生活はIさんの生活とはまたちがうけれど、
なんでもない一日を、丁寧に暮らし、そんな日々を重ねていけたらと、改めてしみじみ思う。

Iさん、ほんとうにありがとうございました。
たくさん連れ回してしまって、お疲れがでていませんように。
これからもずっとお元気でよい制作を。
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by ai-pittura | 2014-06-07 21:40 | 人間 | Trackback | Comments(2)
2013年 04月 15日

こころの川

b0080173_2319492.jpg昨日、街でかなしい出来事を目にした。
小さな川の横に黒い軽自動車が止まり、中から出てきた青年が
おもむろにマクドナルドの飲み終えたジュースの容器を
川に放り投げた。
続け様にハンバーガーの包み紙などが入っているであろう袋のごみを
投げ入れた。
数瞬の後、ごみは音を立てて川面に落ち、
弧を描きながら下流へと流れはじめた。
彼らに声をかけようとしたけれど、咄嗟に声が出ず、
車はあっという間にその場を去っていった。
コンクリートで固められた小さな川だったけれど、
少し先には小さな鷺がいた。
干潟のようなものがあった。
私はしばらくそこを動けなかった。


多分、とてもショックを受けたのは、彼らがした行為に対してというよりは、
彼らの目には川が川として映っていなかったことに対してなのだと思う。
彼らは果たして川で遊んだことがあるだろうかと漠然と考えていた。
心に川が流れていないなら、そのなかで愛情をもつことはきっととても難しい。
そしてそれは川に限ったことではない。

野田知佑さんという人がいる。
有名なカヌーイストで、ガクという犬と共にユーコンやアラスカ、世界中の川を下った人だ。
私は特にその犬ガクのファンであり、ガクが生きていれば弟子入りしたかったくらいだが、
その飼い主の野田さんは「川ガキ養成講座」と称した川の学校をつくり、
とにかく子供を川に放り込もうとしている楽しい大人だ。
野田さんのような人がいることも、川を知らない彼らのような若者がいることも、
どちらも日本の事実なのだ。
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by ai-pittura | 2013-04-15 23:55 | 人間 | Trackback | Comments(4)
2012年 12月 15日

踊ろうマチルダ

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麒麟が跳ねる夢いっぱいのオリジナルムービーの映像と共に、流れる歌がぐっときた。
(何を隠そう、私はビールは麒麟党なのです。)

そして、踊ろうマチルダさんのライブに行った。
時間も空間もひとすくいにかっさらってしまったマチルダさん、嫉妬するほど
素敵な夜だった。




一生懸命、絵を描こう。

今日は不在者投票へ。小さな町の市民センターはたくさんの人でごった返していた。
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by ai-pittura | 2012-12-15 22:48 | 人間 | Trackback | Comments(2)
2012年 04月 13日

童仙房の鯉江良二さん

桜並木の瀬田川を横目に信楽方面へ、茶畑の谷をいくつも越え、うねうねの山道をどこまでも走り、
途中の道では猿にも出会い、3時間かけて目指したのは南山城村の童仙房。
童仙房といえば、陶芸をしている人にはなじみ深い名前の土で、まさにそれはここでとれる土。
その山の上の旧野殿童仙房小学校にて、今日は鯉江良二さんのワークショップに参加してきた。

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by ai-pittura | 2012-04-13 22:16 | 人間 | Trackback | Comments(4)
2011年 10月 30日

星野源さん



うた、松倉如子さんや勝さん、高田渡さんは私の特等席ながら、
最近星野源さんが好きで何度も何度もくりかえし聞く。

日常のあたりまえさ、
あたりまえであることのすばらしさ!
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by ai-pittura | 2011-10-30 18:01 | 人間 | Trackback | Comments(2)
2010年 06月 03日

大野一雄さん

b0080173_183727.jpg6月1日大野一雄さんが亡くなられた。103歳。

死者が私のなかに、ともに住んでおる。
私の知識は別にして、魂に成長ということがあるならば、
私は自分の魂を含め、死者の魂のなかで成長する。
自分のなか、死者の魂のなか、魂のなかの死者、
そういう重なりのなかで成長する。
死者の眠りのなかへ、死者の夢のなかへ私が入っていく。
そういうなかで成長する。
知識が生きて使われるというのは、死者の恩恵であるとか、
われわれの想像力、魂、全部のなかで知識が成長するんだ。
               愛読書『稽古の言葉』より
生で踊りを見たり、お会いしたりすることは叶わなかったけれど
なぜか近しい存在として感じさせてもらってきた人。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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by ai-pittura | 2010-06-03 18:08 | 人間 | Trackback | Comments(4)
2010年 05月 22日

田中泯さん

b0080173_23274825.jpgb0080173_23273794.jpg
神戸、須磨寺にて行われた田中泯さんの場踊りを見に行ってきた。
瞼を閉じればいまも泯さんが舞っている。
手と足が大きい。思っていたよりも背が高い。
何かが身体から迸っている。渦巻きのようにリズミカルな波を持って、弧を描いている。
しかしそこには耳が痛くなるような静けさもあって。
場を踊るということ、それは己をみること、
自分がここにいるということと、とりまく場があるということはすなわち同じだ。
場踊りはきっと全身全霊でいまおかれている場を知るということなんだと、私にはそう感じた。
空をあおぐ、石の道に跳ねる、木に顔を埋める、砂で顔をあらう、場を受け入れ
意識から深く潜って身体がしるところを信じること。感じることを確かめ、すすむ。
泯さんのなかの宇宙が樹の枝のように広がってその傘の下に私たちはいた。
身体と、感覚というものをもらって自分がここに存在していることの意味を問いかけられる。
それはまた点をつないで線にしていくことなのだろうと。
私たちは皆、場踊りをしているんだなあ。
泯さん、ありがとう。
必ずまた泯さんの舞いを見にゆく。

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踊る直前の泯さん。踊りのなかではとってもチャーミングな一面も。
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by ai-pittura | 2010-05-22 23:59 | 人間 | Trackback | Comments(2)
2009年 12月 24日

無名の音楽家

クリスマスが近くなってから、アヴェマリアを聴きたくなってよくかけていた。
アヴェマリアといえば、グノーやシューベルト、カッチーニのものが有名だが
カッチーニの(作とされる)アヴェマリアが群を抜いて好きだ。
作とされる、と書いたが、
本当はこの曲をつくったのはロシアの音楽家ヴラディーミル・フョードロヴィチ・ヴァヴィロフである。

ヴァヴィロフ(Vladimir Fiodorovich Vavilov, 1925年5月5日 – 1973年11月3日)は
ロシアのギタリスト・リュート奏者・作曲家。ソ連における古楽復興の立役者である。
ヴァヴィロフは、自作をきまって昔の作曲家、たいていはルネサンス音楽やバロック音楽の
作曲家のものとした。また、時々それ以後の作曲家になることもあった。
ヴァヴィロフは、名目上の「作曲者」のしかるべき作曲様式にはまるで無頓着であった。
とりわけ有名な偽作に以下の例がある。
「フランチェスコ・ダ・ミラノ作」の《カンツォーナ》(または《黄金の都市》とも)
「アンドレイ・シクラ作」の《マズルカ》
「ミハイル・ヴイソツキー作」の《悲歌》
「ニッコロ・ニグリーノ作」の《リチェルカール》
「バラキレフ作」の《即興曲 "Impromptu" 》(ヴァヴィロフの偽作の中ではかつて最も有名だった)
《カッチーニのアヴェ・マリア》ヴァヴィロフ自身は作者不詳としていたが、
いつの間にかジュリオ・カッチーニ作として定着した。

ヴァヴィロフは窮乏の末に膵臓癌によって亡くなった。

それから数ヵ月後に《黄金の都市のカンツォーナ》が発表されると、一夜にしてヒット作となった。
(wiki)

《カッチーニのアヴェ・マリア》はガランテ、アンドレア・ボチェッリ、スラヴァなどによって歌われているものが有名で、
スラヴァを教えてもらった時はその世界観に驚いた。
歌い手の解釈によって本当に表情をかえるこのアヴェマリア、ドキッとするようなスラヴァも
朴訥な素直さを感じるボチェッリも私はそれぞれに好きで
なによりそれを支えている旋律の深い響きに心をうたれる。





作家自身の名前などのこらなくてもよい、それがいいものなら作品だけがのこってゆけばいいと
その信念をヴァヴィロフは生きたように思えてならない。
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by ai-pittura | 2009-12-24 15:38 | 人間 | Trackback | Comments(2)